ページの先頭です。

INTERVIEW

柳本雅寛Yanagimoto Masahiro

ダンサー・振付家・ユニット+81主宰

「“大衆ダンス劇”を創ってゆきたい」

海外の先鋭的なダンスカンパニーで8年間経験を積み、出演した作品数は60以上にも及ぶ。帰国後は、コンテンポラリーダンス界を率いるダンサーの1人としてたちまち頭角を現し、その名を知らしめた。ゴールデンウイークを直前に控えた4月下旬、撮影現場にカーキー色のレザージャケットを羽織って颯爽と表れ、ひとつ一つの質問に誠実且つ柔らかい語り口で丁寧に応じてくれた。

 home_mainimage01_sp

   ダンスをはじめる前は、空手や野球に夢中だったと語るが、少年・柳本雅寛とダンスを結び付けたストーリーがとても面白い。

ジャッキー・チェンになるつもりが……

 「小学生の頃の僕にとって、ジャッキー・チェンは神でした(笑)。それで、彼になるため児童劇団に入ったんですが、ジャズダンスが必修だったんです。最初はイヤイヤながらクラスを受けていたのが、知らないうちにハマってしまった(笑)。その当時の1980代はミュージカルが大ブームで、劇団四季に入りたいという気持ちが高まった。友達に話したら、それならバレエを習わなきゃということでクラシック・バレエを習うことに(笑)」
 
 好きなものが見つかると、まっしぐらに突き進む柳本青年は、大阪市の故石川恵津子が教えるバレエクラスに15歳から通うことになり、師匠と呼ぶ石川先生の元、バレエ漬けの日々を送ることとなった。
「とにかくスキルを上げないと活躍できないと思った、バレエを上手になりたいという純粋な思いだけでした」
 
 3年が過ぎた高校生3年の頃、レッスンの帰りに師匠から一言問われる。
「マサヒロ、高校出たらどうするんや?」
 師匠のクラスには10歳年上の兄弟子がいて、すでに活躍していたんです。
「『その先輩みたいになりたいです』って即答したら、『よっしゃ、分かった!』って。今思い返すと、あの瞬間がダンス人生を歩む分岐点だったんではないかな」
 ジャッキー・チェンから、バレエにすっかりハマってしまった、18歳の柳本青年。その頃に憧れたバレエダンサーはいたのだろうか?
「もう圧倒的に、ミハイル・バルシニコフ。ビデオテープを擦り切れるほど観ました。テクニックはもちろんですが、気品とユーモアを兼ね備え、人間味溢れる色気。僕にとっては神でした」
 
 柳本の高校卒業と同時期に、石川のバレエ団、アートバレエ難波津が創立され、そのまま同バレエ団入団。バレエダンサー柳本は師匠の期待を一身に背負い、さらに日々の稽古に邁進してゆく。
 「師匠の方針で、アルバイトをしながらバレエ団に通うことが条件だったので、コンビニや喫茶店でレッスン前の早朝アルバイト。そして、バレエ団に直行。舞台が入るとそれにリハーサルが加わって、丸一日中バイトとバレエ。あのときが一番人生がんばっていたかも(笑)」
 コンクール入賞など修行の成果が現れだした頃、本人の想像を超えたある“事件”に直面する。
 
 その当時の1998年5月、ドイツ・シュツットガルト・バレエ学校から、ブラウンシュバイグ州立劇場のモダンバレエ系のダンスカンパニーに入団することになった井上勇一郎に会いに、ドイツへ赴く。
「勇一郎くんから『ドイツに遊びにおいでよ』と声をかけてもらったので、師匠に許可を取って、3週間ドイツを巡りました。1週間は彼の所属するクラスのレッスンに通ったり、他の都市を回ったりしていたんです」
 しかし、ここで思いがけない展開が!
「ダンサーの1人が怪我をして、それで僕に連絡がはいったんです、『2日後に本番の舞台に出てほしい』と」
そして急遽、同カンパニーオリジナル作品の『シンデレラ』に出演することに。
「王子の友人の役で出たんですが、その後、3か月後の次シーズンから入団しないかとオファーをもらいました」
 
 迷いはなかったのだろうか?
「20歳ぐらいになった頃やっと、『バルシニコフにはなれない』って気づいたんですよね(笑)。O脚というコンプレックスにも悩み、バレエを続けていくことに限界を覚えていた。それで、ドイツではじめてモダンバレエ(その頃はコンテンポラリーダンスという言葉はまだ確立されていなかった)に出合って、その魅力にとりつかれました。16人のカンパニーだったんですが、みんな個性的なダンスを踊っていた姿にも感動でした」

 その当時21歳。師匠にはなんと報告したのだろう!?
「現地から即ファックスで師匠に報告しました。帰国して会ったのですが、当然師匠は大激怒です。3時間ぐらいずっとお説教(笑)。でも師匠の素晴らしいところは、『あなたの人生だから、自分で決めればいい』と最後に言って送り出してくれたところです」
 これから同バレエ団を率いる愛弟子を失うショックの大きさは充分想像できる。

セカンドライフはバーテンダー!?

 ブラウンシュバイグには2年間在籍したのち移籍を決意。
「僕はたぶん飽き性なんですよね。1年間過ぎたぐらいに、もっと面白い作品を踊りたいという気持ちが沸いてきて、面白いダンサーと仕事すればするほど、さらに新しいダンサーと踊りたくなる。より良いレベルの高いカンパニーにステップアップしたいと思うようになりました」
 そして、24歳の2000年にミュンヘン・ダンス・シアターに移籍するが、2年後にはさらに新天地を求めてオランダへ。移籍を重ね様々な創作に携わり実績を積み、29歳になっていた。
「気がつくとモチベーションがゼロになっていました。今考えると完全に病んいでましたね。 スタジオに行きたくない、リハーサルしない、ボスの言うことも聞かない(笑)。8年間朝から夕方まで毎日踊り続けて、燃え尽きましたね。踊ることに疲れ、ダンスに対して空っぽになりました」
 逃げるように帰国したというが、その後はどう過ごしたのだろう?

「地元の大阪に戻って、半年間朝から晩まで遊びまくりです。向こうで貯めたお金を全部使い切りました(笑)」
 その後、ダンスに戻るきっかけとなったエピソードがまた面白い。
「セカンドライフはバーテンダーや、カフェで働くことが夢でした。それで、10年ぶりに求人雑誌を買って面接に行ったら、ある有名な高級ホテルだった。その面接で、人間性を否定されるような厳しい言葉を言われ、むちゃくちゃ凹みました。その通りだなって(笑)」
 しかし、立ち直りも早い。その帰りの電車の中で「じゃぁ、もうちょっと踊るかな」。
 
 気分転換も兼ね(!?)、コンテンポラリーダンサーの友人・青木尚哉に会いに東京に行くことになった。
「2007年頃だったと思います。東京に数日滞在していたのですが、青木くんからコンテンポラリークラスの代講を頼まれて、はじめて講師の経験をしました。そしてすぐに、レギュラークラスのオファーをいただき、まだお会いしたことはなかったのですが平山素子さんがちょうど一人ダンサーを探していて出演が決まり、加賀谷香さんが、『良いダンサーがいる』と方々に声をかけてくださって、ダンサーの仕事が色々広がってきたんです。半年遊び尽くしてリセットできたのが良かったのかも(笑)」
 それ以降、本格的に東京でのダンスライフがはじまった。
 
 コンテンポラリーダンスの魅力はどこにあると感じているのだろうか?
「まずはメソッドがない=自分自身がメソッドになる=誰も真似できない=唯一無二の存在になれる可能性がある。その憧れに向かって突き進んできました。今は、ムーブメントそのものよりは、ダンサーの存在感・個性に惹かれます。高いダンススキルに興味は感じない。僕はダンサーそのものの人間味・人間臭さに興味がある」
 
 踊る原動力についても教えていただきたい。
「ダンサー仲間たちとお酒を酌み交わしながら、アイディアのブレインストーミングをしているときが一番楽しい。世界観・価値観を共有出来るダンサーの仲間や、観てくれるお客さんがいてくれるからこそ、自分の存在意義があると思う」そして次の、非常に謙虚な一言に驚かされる。「もし僕のファンがいるのであれば、その人たちにも喜んでもらいたい」

対話する身体

 ダンサーとしてだけでなく、創作にもさらに情熱を注ぐことになる。そのきっかけになったのが、大植真太郎との出会いだった。
「極上の楽しみでしたね。彼と世界観・方向性ががっちり噛み合う。アイディアの連鎖がどんどん広がってゆく面白さは格別でした」
 2008年に大植を中心として柳本、平原慎太郎の3人で「C/Ompany」を立ち上げ、ダンスの奥深さを探求してゆくことになる。そしてさらなる欲求が、青木尚哉と立ち上げた自身のカンパニー「+81」の創立に繋がってゆく。お喋りしながらのムーブメントとユーモアセンスも取り混ぜる独自のスタイルを確立させた。
「+81を創立して2019年で8年になります。創作に関しては、常に救いのある物語を創るようにしています。悲劇と喜劇は表裏一体ですよね。僕はその間を遊ぶのが好き。僕の作品が、悲劇か喜劇だったのかはお客さんが決めていい。自分で感じて考える楽しみを体験してほしい」
 
 振付家としての使命感はどう感じているのだろうか?
「意欲や使命感というよりは、自分のやりたいことをやりたい。それしかできない。+81の出演キャストは毎回違うメンバーが集まりますが、“戯れ”の延長が一番楽しい。クリエイション?そんなカッコイイものじゃなくて(笑)、スタジオで色々試行錯誤している時間が面白い。
 たとえばね、部長と部下が居酒屋で飲んでいる設定が、そのままダンスになったりする。酔っぱらった部長が部下に寄りかかる構図を、身体とのコンタクトに変換してゆく。それをかき集めていくと作品になってくる」
 
 創作へのこだわりや美学についてはどうだろう?
「僕は、エンターテイメント性を重要視しているので、分かりやすい世界を創りたいと思っています。でもそこに想像力が必要な不可解な余地も残したい。これまで海外で60作品以上を踊ってきて正直、半分以上面白くない作品だった(笑)。でも、それが財産になっている。やりたくないことをやってきた経験があるからこそ、自分が本当にやりたいことが見えた」
 その、やりたいことの集大成のひとつが+81の初演作となった2011年の『Lilly』(共作・青木尚哉)だった。「はじめて自分のやりたいことを踊りたい人と踊った15分間」と振り返る。本作は“対話する身体”と高評価を得、大阪や北海道やカンヌでも再演された。
 
 創作に関して、意外な一面も垣間見せる。
「僕は石橋を叩いてしか渡らないダンサーです。臆病だと思いますよ(笑)。多くの人が僕の作品をインプロだと思って観てくれるのは嬉しいですが、不確定要素を僕は信じない。物語は全部計算して組み立てています」
 
 そして、次の振付・出演舞台は、恵比寿のビートニックで7月に開催が決定。2015年の初演作の続きとなる『続編ダブルブッキング』(仮題)。共演者は前回同様に熊谷拓明。前作は、「劇場をダブルブッキングされてしまった」という設定で、柳本・青木・熊谷3人のダンサーがそれぞれセリフを喋り、主張しながらムーブメントを繰り出してゆく。今回は柳本と熊谷の2人が、どんなストーリー展開を見せてくれるのか期待したい。
 
 また近年、毎年夏の恒例となっている<横浜バレエフェスティバル>も、レギュラーキャストとして登場している。タイトル・内容ともこれからのお楽しみとなるが、共演者は大宮大奨に決定。
「大ちゃんは憑依型のダンサーかな。僕の無茶な提案にも、0.1秒で返してくる。何を言っても即返答してくるスピード感、僕の想像を超えてくるすごいダンサーです。タップも踏めるダンサーなので、面白いシーンが創れそう」
 
 今後の夢もシェアしてもらおう。
「最近、若手のバレエダンサーにコンテンポラリーダンスを教える機会が増えてきました。コンテの面白さ、創り出す楽しみ方を伝えたい。コンテで育んだ僕の経験値をシェアしてゆきたいと思っています。
 2019年1月開催した+81「段差@踊場」Vol.2も継続してゆきたい。次世代のクリエイターたちがこの+81のシリーズ企画への出演で知名度がもっと上げられたら嬉しい。“大衆演劇”ならぬ“大衆ダンス劇”みたいな、もっと気軽に楽しめる舞台を創っていきたいですね」

C)RYO OHWADA

C)RYO OHWADA

==プロフィール==

1998年ドイツのニーダーザクセン州立ブラウンシュバイグにソリストとして入団。2000年ミュンヘン・ダンスシアターに移籍。02年オランダのスカピーノバレエロッテルダムに移籍。03年コニーヤンセンダンス、04年ガリリダンスに出演。06年から日本に拠点を移し平山素子、加賀屋香、森山開次、黒田育世などと共演。08年に大植真太郎、平原慎太郎らと「C/Ompany」を、11年には自身の主宰する「+81」を青木尚哉と共に結成。振付作品を国内外で発表。14年より創設されたJAPON dance projectのメインメンバーも務める。

公演情報

+81 × 熊谷拓明「続編ダブルブッキング」(仮題)
2019年7月28日(日)、29日(月)ビートニックスタジオ
http://www.beatnik-studio.com/

<横浜バレエフェスティバル2019>
2019年8月3日(土)神奈川県民ホール
https://www.kanagawa-kenminhall.com/detail?id=35797